最終更新日時 2024-04-26 22:28:34

他校に先んじた応援スタイルー明治大学應援団設立90周年を迎えて (中村久義)

平成23年12月11日に開催されました『明治大学応援団創立90周年記念式典』に際して、応援団OB中村久義氏より投稿を頂きました。中村氏は平成7年に紫明クラブ(後に全国紫明クラブ)が発足した時の中心的メンバーで現在も当会顧問として会の活動に助言を頂いています。 
(詳しくはこちら →記念式典 →吹奏楽部演奏会

★『明治大学応援団設立90年』を迎えて   前応援団OB会会長 中村久義 (S36法学部卒 ナカムラ綜合企画代表)

90周年式典で表彰される中村久義氏

『明治大学応援団創立90周年記念式典』が、平成23年12月11日に大学関係者・体育会・校友会・六大学応援団・応援団OB 約600名が参加して明治大学において盛大に挙行された。
わが校の応援団の歴史は大正10年のボートレースが行われた時に相馬基団長(相撲部出身)が出来たばかりの校歌「白雲なびく」をひっさげて応援したときに始まる。長髪をなびかせ紋付袴の豪壮ないでたちで紅白の扇を振って登場、おなじみの三・三・七拍子で活発な応援をして選手を激励した。
昭和21年、将校服から学生服に変えた八巻恭介戦後初代応援団長は、混乱と頽廃の渦中で「何が学生に希望を与え、明日を再建する礎となるか」を考えたとき頭に浮かんだのは応援団の再建であった。愛校の至情あふれる八巻団長の檄文が張り出された。これに感激共鳴した10数名が八巻団長の下に馳せ参じ新応援団として発足したのであった。
当時、学生野球のメッカであった神宮球場は連合軍に接収され使用不可能であった。昭和21年春に各校の熱意により六大学野球リーグ戦が復活した。
まだ神宮球場が使用不可能であるため後楽園球場、戸塚球場等を使用し転戦した。大学の現状を憂い母校愛に燃えた各校の熱血漢たちが、応援団を再建し、学園に新しい息吹と秩序を吹き込むべく立ち上がった。
八巻団長を中心とした他大学応援団の尽力で東京六大学応援団が結成された。
戦後の娯楽の乏しい時代、六大学野球リーグ戦の復活は、多くの人々に新たなる希望を与えた。当時六大学野球は非常に人気があり、学生や多くのファンが大挙して応援にくりだした。21年秋から六大学リーグ戦の優勝校に天皇杯が授与されることとなった。リーダー部の“徒手空拳”の応援に鳴り物を入れ「学園内の士気の鼓舞とスポーツ応援の為」に24年に他校に先んじて吹奏楽部を設置し、神宮球場を唖然とさせた。警視庁音楽隊の指導で、猛特訓を開始した。この年の11月に明治大学創立70周年を迎え記念式典が挙行され、明治大学記念館に天皇陛下のご光臨を賜った。「君が代」および校歌「白雲なびく」の演奏を行った。
30年秋には明治大学記念館で「第一回紫紺の集い」が開催された。
この時、学生歌「都に匂う花の雲」を古賀政男氏に、応援歌「紫紺の旗の下に」を古関裕而氏に依頼し発表した。明治大学応援団は、6大学ではじめてバトントワラーを採用した。この時代背景に影響を受け、応援団も何となく派手やかになってきた。

伝統の継承と改革・躍進を誓う応援団

90周年の歴史を重ねてきた応援団も大きな曲がり角にきている。少子化や偏差値問題と入学の条件が厳しくなってきたことも原因であるが、社会状況や学生気質が質実剛健の応援団に馴染まなくなってきたこともある。
応援団の100周年を迎える頃には女子の応援団長が登場するかもしれない。
日本のスポーツ界の雄として、活躍してきた明治大学は「文武両道」の精神を大いに発揮したいものである。

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