最終更新日時 2018-04-15 19:24:36

私の趣味ー『狛犬』 第3回 (藤山正純)   

★狛犬の話  第3回     佐賀県 藤山正純 (S47政経 藤山正純法務事務所

1.狛犬概論
(3)「ア・ウン」のことなど
 皆様が拙文をお読みになって、これまでより幾らかでも注意深く狛犬をご覧になりますと、狛犬というものが「ア・ウン」の一対になっていることに気付かれることでしょう。

全国にご当地狛犬は数多けれど、どんな狛犬もまず例外なくそうなっているのです。

そして、ほとんどの場合、向かって右側がアで、左側がウンという配置です。ただし「ほとんど」と言うからには、そうでないケースも皆無ではありません。左右が逆に置かれているものを、たまには目にすることがあります。しかし、そのうちの大半は、特に意味があってそうしているのではなく、単なる「置き間違い」と思われるものです。

ところで、狛犬の一般的な構図は、体は参道を挟んで互いに向き合い、首だけを少しこちら側に曲げて、参拝者を観察しているような体勢になっています。これを「横置き」と称することにします。それに対して、体が参道に平行で、すなわち、体ごとまっすぐに参拝者を見ているものも、少数ながら存在します。これは首を曲げる必要がないので首と胴は直線的に造られています。これを「縦置き」と称することにします。さきほどの「置き間違い」が起こるのは、ほぼこの「縦置き」の場合に限られています。と言うのは、「横置き」の左右を取り違えると、首が神殿側を向くことになり、参拝者にはそっぽを向くことになってしまうので、誰でも「間違い」に気付くことができるからです。しかし「縦置き」の場合には、「右がアで左がウン」という決まりを知らないか、知っていても不注意であると、つい間違えてしまうのです。しかも、間違えても見た目にあまり違和感がないので、そのままになってしまうことが多いと察せられます。そういうわけですから、アウンが逆になっているとしたら、「縦置き」の場合で、「置き間違い」の結果であることをご理解いただけたものと思います。

ところが、非常にまれなことなのですが、「横置き」であるにも関わらず、「アウン」が逆になっているものがあるので、何事も「決めつけ」は良くない、ということを思い知らされるわけです。そのケースでは、アウンが逆なのに、どちらもちゃんと手前に首を曲げて、しっかりこちらを見ているのです。これはもう、はじめからそのように造ろうとして造ったに違いありません。こうなると、石工か施主が、何らかの意図のもとに、特別にそのようなものを創出したとしか考えられないのでして、どんな意図なのかは全く量り知れないものの、意図的であることには疑いの余地はありません。狛犬の世界も、分け入ってみると、なかなか奥深いものがあります。

狛犬のウン

狛犬のア

   

 狛犬のウン(左)    狛犬のア(右)

 さてここらで、今回の主題に戻ることにします。ア・ウンという音は、古代インドのサンスクリット語「アー・フーム」から来ていて、それは物事の始まりと終わりを表すのだと諸々の読み物に書いてありますので、そこは確かなのだと考えて良いようです。

一方、アとウンは日本語の五十音表の最初と最後の音でもあります。これはちょっと不思議に感じられますし、偶然の一致のように見えるかも知れませんが、実は五十音表の配列は、サンスクリットの音韻学をもとに考案されたらしいので、ちゃんと筋は通っているのです。

そのア・ウンの造形上の例として、狛犬以外にも仁王像などでは、ア像は口を開き、ウン像は結んでいます。アとウンを発音するには必ずそうなりますから、仁王像は「ア・ウン」を口の形で具象化したものということになります。そもそも「アー・フーム」は仏教の呪文の一種らしいので、仁王という一対の仏像は、その表現者として適任に違いありません。

仁王のウン

仁王のア

   

  仁王のウン(左)  仁王のア(右)  (Wikipedia「金剛力士」より)

それで、狛犬の場合もそれに倣ったもの、というのが一般的な理解になっています。つまり仏教美術の様式が先にあって、のちに狛犬にも応用されたというわけです。時代の前後関係は確かにその通りであろう、とその点には誰もが納得せざるを得ないでしょう。

しかし、ここでちょっとした疑問が生じないでしょうか。それは、狛犬は神社のアイテムなのに、どうして仏教の様式を真似るなどということになったのか、という点です。

というのは、時は欽明天皇の治下、西暦538年に仏教が百済から伝えられた際、その仏教の受容をめぐって、共に朝廷の要職にあった蘇我稲目と物部尾輿が激しく対立したことは、誰でも教科書で学んだことです。争いはエスカレートして次の世代にまで持ち越され、結局は尾輿の子、物部守屋が敗死、ここに古代の名族・物部氏は滅亡してしまったのです。

それほどの確執が仏教と神道の間にあったのだとすれば、仏教は仏教、神道は神道として、決して相容れない各別の道を歩んだと考えたくなるのが道理ではないでしょうか。

ところが、何事にも深いわけがあるのでして、そのような争乱を経たにも関わらず、それから200年ほどのうちには、神道と仏教はすっかり密着してしまうのです。仏教の隆盛に神道側が寄り添ったのか、日本人の心情に深く根ざした神道を仏教側が取り込んだのか分かりませんが、恐らくその両方であったろうと想像されます。

天平宝字7(763)年のことです。伊勢国桑名郷の多度大神が、「我れは多度の神なり。吾れ久劫(長い時間)を経て、重き罪業をなし、神道の報いを受く。いま冀(こいねがわく)ば永く神の身を離れんがために、三宝(仏教)に帰依せんとす」と託宣したことが知られています(『神仏習合』義江彰夫著)。

地元で「大神」と敬われ、永く崇敬を受けてきた多度神が、神の身を捨てて仏教に帰依したい、と念願した仰天事件とでも言うべきできごとです。しかしこれと前後して、常陸国鹿島大神や山城国賀茂大神までもが、同様の告白をしています(前掲書)。

更に中世になると、「本地垂迹説」が盛んに流布されるほどでした。本地垂迹説とは、神の本質(本地)は仏であって、その教えを分かりやすく日本人に伝えるために、仮に神の姿となって現れた(垂迹)のだ、という教義です。その仮の姿が「権現」(権(かり)に現れる)というわけです。「権現社」と名の付く神社は、現在でも至る所にありますが、それはこの思想が日本中にあまねく普及していたことのあらわれなのです。

この状況を神仏習合といい、明治維新直前まで、千年以上にわたって定着した信仰形態でした。ですから、日本人が思わず「神様仏様」と唱えてしまうのは、我々の節操のなさや無知無理解の故ではなく、宗教者側からも積極的にそうした教導がなされてきた結果なのです。そんなわけで、維新前までは、同じ敷地に神社と寺があるのは普通で、一つの建物が神社でも寺でもあるとか、神官と寺僧が同居などというのも一般的なあり方でした。

藤山正純氏

 明治政府が神道を国教化するに当たり、神仏習合の状態を解消しようとして発布した「神仏判然令」(神仏分離令)によって初めて、神社は神社、寺は寺として違いを明確にしなければならなくなりました。これには別に、仏教排斥の意図はなかったといわれていますが、それをきっかけとして全国的に廃仏毀釈運動が捲き起こり、至る所で石仏が毀損されるという事態を招いてしまいました。お寺で首の欠けた石仏や、後にセメントで接着した跡のある石仏をご覧になった方は多いと思います。その熱気に突き動かされた民衆も、仏教や釈迦に恨みがあるのではなかったはずですが、新時代の高揚感とともにナショナリズムを刺激され、外来の宗教である仏教に対して極めて攻撃的になってしまったのでしょう。

というわけで、鳥居や狛犬は神社だけのアイテム、と我々が認識している状況は、わずか150年ほど前からの伝統に過ぎないのです。神道と仏教が反目していたのは歴史の中ではほんのいっときのことで、それ以降は持ちつ持たれつといいますか、むしろ互いに離れがたい存在になっていたというわけです。だから神社のアイテムと考えられる狛犬が、仏教アイテムの仁王を真似たとしても、別段どうということもなく、同じ一対のもの同士でもあり、むしろ自然の成り行きだったと考えて差し支えないのです。(つづく)

 

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