最終更新日時 2024-04-26 22:28:34

会員訪問記-アマチュアイズムに徹した樋野和寿氏を訪ねて (上西紘治)

★会員 樋野和寿氏 (S49年 政経卒 リバースチール㈱ )を訪ねて (上西紘治 S41工 全国紫明クラブ特別顧問)

樋野和寿氏

「久し振りです。例会に顔を出さず失礼しています。」
横浜市磯子区のリバースチール㈱本社に樋野和寿氏を訪ねました。確か4年ぶりの面会でしたが、樋野氏は旧知の仲のごとく温かく迎えてくれました。

 樋野和寿氏の名前を知っている方は大勢いらっしゃることと思います。
1969年夏の甲子園大会で松山商業の遊撃手として、三沢高校と延長18回引き分け再試合の死闘の末全国制覇。ドラフトで阪神に指名されるも明治大学に進学。1973年の東京六大学野球秋季リーグ戦優勝、日米大学野球の日本代表選手に選出されました。再度ドラフトで中日に指名されるも日本鋼管に就職し、1976年の都市対抗で優勝し橋戸賞(MVP)に輝かれました。高校、大学、社会人すべてで優勝するという偉業を達成されました。

現在はJFEグループ企業、リバースチール㈱ 取締役 建設・鉄鋼部長の要職にあり、建設受注と販売の責任者として会社経営を担っておられます。
樋野氏は「死闘を演じた三沢高校の皆さんとは今でも交流している。3.11の大震災で三沢の仲間も被災し心を痛めた。大学時代は島岡監督に徹底して礼儀を教え込まれた。社会人になってもプロから誘われたが、教育者であった父の言葉、島岡監督の指導、義理の父の願いもありプロを目指す気はなかった。今でも後悔はしていない。」等々野球の事、そして「鉄鋼業界は韓国、インド、中国の新興国に押され苦戦している。受注活動を優位に進めるため、客先のニーズにあった提案営業と高い総合評価点を獲得する事に注力している。」「卒業して以来大学とは疎遠になっている。会社も合併と変革で大きく変わった。もう60歳を迎える年齢になった。大学の情報は気にしているし、全国紫明クラブの例会にも機会を見つけて顔を出してみたい」と話しが弾みました。

 1時間足らずの訪問でしたが、樋野氏のあえてアマチュアで通したスポーツマンの清々しさと、企業人としての心意気を強く感じました。
      (記 上西紘治)

返信する