最終更新日時 2018-08-17 13:29:51

私の趣味ー『狛犬』 第7回 (藤山正純) 

★私の趣味 「狛犬」 第7回    藤山正純 (S47政経 藤山正純法務事務所)

2.狛犬各論
(1)肥前狛犬
「狛犬」と聞いて、それがどんなものだか見当がつかないという日本人は、あまり多くはないでしょう。信仰心が薄れたといわれる今日においても、神社を訪れる機会は結構多いし、そのたびに、かなりの確率で狛犬に遭遇しているはずだからです。全国の神社の数は、宗教法人格のあるものだけで6万社以上であり、これは銀行(3万)と郵便局(3万)の店舗の合計数と同じです。全ての神社数だと10万社はあると推測していますので、その場合は、更にコンビニ(4万)を足した数に匹敵する多さです。日本中いたる所に神社があると言っても全く過言ではありません。誰もがどこかで狛犬に出会っているというのは、決して誇張した表現でないことを、この数字によってもお分かりいただけると思います。だから、それが獅子に似た動物の姿をしており、アウンで一対になっていることなど、外見上の基本的な特徴については、誰もが容易に指摘しうるほど馴染み深い存在と言えます。ところが、馴染み深いからといって、そのぶん理解も深いとは限りません。関心がなければ、見えてはいても注目はしていないからです。

 しかし何かのきっかけで狛犬に注目し始める人も、少なからずおられます。そしてその人達の最初の発見は、「狛犬には個体差がある」ということです。そしてその発見こそ、深遠で果てしない狛犬愛好の道への第一歩であったことに、あとになって気が付くという次第です。

狛犬の個体差の由来は、①地域差②時代差③個性差に集約することができます。地域によって独特のモデルが造られていますし、同じ地域でも時代によって様式が変遷しています。これに石工の個性差が加わってきますので、狛犬の見分けはなかなか簡単ではありません。

今回お話しするのは、安土桃山時代に造り始められ、佐賀県における狛犬石造化の嚆矢となった、「肥前狛犬」と呼ばれる一群についてです。それは江戸初期前後から、大体1600年代半ば頃までに盛んに造られた原初的な石造狛犬で、佐賀県でよく産出され、柔らかく加工に適した安山岩で造られています。この狛犬の特徴は次の通りです。

イ.20~30㌢程度の小型のものが主流である

ロ.脚間と腹下は刳り抜かず、四肢はレリーフで表現される

ハ.正面観は縦長の長方形、側面観は4分の1円を描いている

 ニ.アウンの別はあるが、開口部は狭く区別しにくい

 ホ.アウンとも小さな突起状の角を有することがある

 ヘ.目はアーモンド状のものが多い

 ト.忿怒相の表現として、顔面に隈取りまたは皺のような筋を入れることがある

チ.別造の台座はなく、底面は本体と一体成型の「盤」を形成している

とにかく、まずは写真でご覧いただきましょう。

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写真①唐津市相知町相知「熊野神社」

「熊野神社狛犬」(写真①)は前回、写真だけをご紹介していました。この肥前狛犬は、奉納された年代が明らかなもののうち、最も古い例です。両脚の間に「鶴田上総介」という銘が刻まれています。この人は当地を治めた実在の領主であり、そのことから、奉納時期が天正年間(1573~1592)であることが特定されているのです。像高は40㌢以上あってイ.の特徴には合致しませんが、これは殿様御用達の特注品なので、大きさも例外的なのだろうと推察されます。

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 写真②唐津市厳木町平之「作礼権現社」

「作礼権現社狛犬」(写真②)も「■田」「上■■」の銘を持っており、欠損部分を補えば先の「鶴田上総介」に違いないと考えられますので、やはり天正年間のものです。

この狛犬は脚間と腹下を刳り抜いて前肢を独立させており、ロ.の特徴と合致しません。しかしこれも熊野神社狛犬同様、殿様の特注品として特別な意匠が施されたものでしょう。

(写真①②『厳木町の肥前狛犬』(厳木町教育委員会発行)より)

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写真③佐賀市金立町「若宮八幡神社」

 写真③は、10年以上前、私が初めて肥前狛犬に遭遇したときのものです。本殿の向拝(こうはい=庇)の下に置かれ、簡略な柵で囲われています。風化が著しく、一部には欠損もあって原型を留めていませんが、この狛犬は、上に挙げた肥前狛犬の数々の特徴をよく備えていて、ひとつの典型例と言って差し支えないものです。

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写真④鹿島市浅浦「救世神社」

写真④は佐賀県西南部の鹿島市にある救世神社の肥前狛犬です。いつもは社殿内に厳重に保管されており、管理者から特別の許可を得て撮影したものです。脚間に「元和2(1616)年、吉田拾兵衛」の銘があります。①~③の肥前狛犬たちと違うのは、頭部が扁平なブロック状を呈している点です。直線基調のシャープなデザインに一種の緊張感があり、精神の高潔ささえうかがうことのできる秀作です。

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写真⑤武雄市西川登町「神六神社」

写真⑤は上記「救世神社」とは同系統と思われる作品で、それより70年ほど新しい天和2(1682)年のものです。この狛犬の特徴は、顔面に刻まれた数本の沈線です。頬にあるものはヒゲとも考えられますが、必ずしもそうした写実的な表現ではなくて、魔除けとしての狛犬に不可欠な「忿怒相」を強調する手法と見るのが妥当です。ただし、目の上の線はマツゲのようにも見えて、忿怒相どころか、極めて愛くるしい表情になってしまっているのが微笑ましく思われます。

 肥前狛犬が盛んに造られたのは1600年前後から数十年の間で、1700年代に入ると衰退の道を辿りました。その理由は、全国標準とも言うべき「獅子型」の隆盛です。完成度の高い新しい狛犬は、それまでの地味でぎこちない彫像から、人々の関心を奪うのに十分な魅力を持っていました。肥前狛犬は大型化によってこれに対抗しようとしましたが、小型の狛犬に適合した浅いレリーフや省略的な造形をそのまま拡大するにとどまったため、平板で陰影に乏しい像容となってしまい、オリジナルが持っていた独創性や溌剌とした個性は失われました。

肥前の石工たちはその後「獅子型」の開発に取り組み、概ね3系統の「佐賀型」の狛犬を完成させていきますが、それらは肥前狛犬の後継種ではありません。このようにして、肥前狛犬という極めてローカル色の強い、個性的な作品群は断絶してしまったのです。(つづく)

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