最終更新日時 2022-12-15 16:44:38

会員企業の紹介ー私はこうして起業した⑬ エムセック・エンジニアリング㈱ (尾上仁郎)

★エムセック・エンジニアリング㈱ 代表取締役 尾上仁郎 (S43年法学部卒)

◇商社マンを目指しESSに所属
私は、昭和43年3月に、明治大学法学部を卒業して、岩谷産業株式会社に入社しました。 
法学部に入りながら、法律家を目指すタイプでなく、学生運動するタイプでもなく、ただ、高校時代に、戦前、農林省にいて満蒙開拓を推進していた父親が、北米・南米に海外移住調査団に参加した時、私もその資料作成や報告書作りに協力して、父から「これからは、海外で活躍しなくてはいけないぞ!」という忠告や、大手商社の肥料部にいて、国内外の仕事をしていた叔父の存在も影響していたと思います。初めから商社への就職希望でした。従って、学生時代は、英語部(ESS)に所属し、英会話を盛んに勉強しました。法学部は、商社志望も少なく、運良く、当時、プロパンガスを中心に、ガス・エネルギー分野他、関連機設備械関係も含めて伸びていた中堅の専門商社である、岩谷産業に合格出来ました。

◇岩谷産業㈱に入社・食品機械部門を立ち上げ
ところが、入社後は、英語の力を発揮するまでもなく、地方の営業所を振り出しに国内の機械部門で、工作機械・産業機械・化学工業機械を10年ほど経験して、昭和50年代に入り、「食品機械」で新部門を創れと云う事になりました。以前は、水産業・畜産業・農業分野の冷凍食品製造で、窒素等の冷媒ガスが使われておりましたが、石油ショック以降、冷媒ガス価格の上昇で、冷凍機を使った機械式急速冷凍技術に移管する時代でした。
また、他の大手商社では、欧米から冷凍食品機械、食肉加工機械、製菓・製パン機械、飲料機械等を盛んに輸入しておりましたが、専門的に別会社化が多い状況でした。そこで、当時関係のあった、米国のステンレス製スパイラルコンベヤーを使った急速凍結装置を中心に、前後の食品加工機械から、計量・包装機械、冷凍保管貯蔵システムまで、一連のシステム販売を手掛けました。そのためには、独自に海外メーカーからの輸入業務もしなくてはならず、国内の一部門だけでは、メンテも含めて多少無理がありました。そのころ、流通エンジニアリング分野に強い、三菱油化エンジニアリング(後の、三菱化学エンジニアリング)との、その製造システム分野での技術提携の話もあり、三菱油化が技術製造元となり、岩谷が総販売元になりました。(写真 ①、①-1参照)

◇商社の一部門での事業展開には限界を感じ独立
それからの三菱油化との事業の展開から、商社の一部門でやってゆくには無理もあるので、独立する事を考えて退職しました。しかし、やる以上、単独で、全ての業務を組み立てる必要もありました。当時、それらのコンベヤーを供給してくれていた、米国のAshworth社の日本代表事務所(横浜)で、4年程軒先借りをしまして、貿易実務を含めた、準備作業に入りました。英語力も含めて、全て修行のやり直しでした。勿論、その間、三菱と岩谷との販売契約も解約してもらいました。
その後は、岩谷の国内部門では、直接取引の出来なかった、海外、または外資系の取引先を中心に実務を進め、平成元年に、三菱油化エンジニアリングに10%の資本参加をして頂き、エムセック(MSEC)・エンジニアリングとして、横浜で独立開業しました。 
(写真 ②参照) 当時の、三菱油化エンジの略称を、MPECと云いましたが、まさに、三菱のシステム・エンジニアリング会社としてのスタートとなりました。(又は、明大のOBとして、今だから言えますが、明治大学の「M」を名乗りたかったのかも知れません・・・)

◇順調な業績推移もバブル崩壊で
昭和から平成の時代、まさにバブル真っ盛りの時代でしたから、開業当初は順調に推移出来ました。何でも有りの時代で、多少のリスクも構わないで、行け行けドンドンの展開でした。東南アジア、香港、台湾、中国等も含めて、国内外の取引が急速に拡大してゆきました。それに伴い、技術陣スタッフ陣容も拡大せねばなりませんでしたし、私の大学在学中の息子も駆り出すような状況でした。それも数年すると、日本の景気は「バブル崩壊」して、大幅に景気後退し、大手機械メーカーがその分野に参入して参りました。平成10年前後、いくら三菱の笠の下でも限度もあり、一弱小企業の域を過ぎませんので、当然、それらの分野から弾き飛ばされます。益々、メーカー直取引が横行して参りました。

◇コンビニ向け食品の製造機械に活路:多くの知人、仲間の支援を受けて
その頃、流通革命真っ盛りで、コンビニエンス・ストアーの展開が盛んで、大手コンビニに食材を供給する、コンビニ・ベンダー工場の建設が盛んでした。それらの工場の内部の製造ラインを受け持つ、設計エンジニアリングの分野に方向を展開しておりましたので、独自に得意な機械を中心に力を入れて来ました。お弁当や、お惣菜、緬類、製菓・製パンの製造ラインです。各工場が同一規格仕様のラインシステムを組む必要がありました。
たまたま、岩谷の食品機械を担当していた仲間が、それらの大阪の機械メーカーに移籍し、応援もしてくれて、東日本の販売権を得る事が出来て、各ベンダー工場に展開出来ました。 (写真 ③、④参照)
それと、永年お付き合いのあった、米国の製菓・製パンメーカーの小型充填機械に、コンビニの衛生基準対応の開発をお願いし、受け入れられた事が大きく、全国のベンダー工場や、水産加工工場に普及して参りました。女性でも組み立てられる機械ですから、簡便で、操作もし易く、現在でも、故障した機械をばらして、宅配便で送り返してもらい、修理して返送する方法で、メンテも容易な方式に変えていきました。(その点では、宅配便の発展の歴史や、機能に負うところが多く、彼らの業績の一旦を担っております)(写真 ⑤参照)
従って、開業当初は、横浜駅前にビルを借り、交通至便な仕事をしておりましたが、現在は、職住接近にして、仕事はいつでも出来るようにし、ゴルフ場も近く、遊びと、仕事を自由に展開出来ている訳です。設計技術陣や、食品部門のスタッフ陣もそれぞれ独立させ、今やインターネットで、どこにいても仕事が出来る時代ですから、いつでも、対応可能な状況にしております。子供達も、そのような会社は継がないという事なので、私のような、起業経歴は参考にならないと、上西会長には申し上げて、ご辞退したい旨、お話したのですが、是非にという事なので、ご披露させて頂きました。この混沌とした、今の時代にはそぐわないかも知れませんが、明大の後輩の方々のご参考にして頂ければ幸いです。
只、最後に申し上げたいのは、身の丈に合った「起業」を目指すべきであって、子供を作るのと一緒で、その後、育てるのが大変だと痛感している今日です。       以上






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