最終更新日時 2022-12-15 16:44:38

私の趣味ー『狛犬』 第6回 (藤山正純)  

★私の趣味 「狛犬」 第6回    藤山正純 (S47政経 藤山正純法務事務所)

1.狛犬概論
(6)狛犬の変革と肥前狛犬
 私は大学を卒業すると同時に故郷の佐賀で就職しましたので、それ以降はとうとう、知らない町で暮らすという魅力的な経験をせずに過ごしてしまいました。つまりは大学時代の4年間だけがその好機であったわけで、このときに、見るべきこと、やるべきことは無限にあったはずなのでした。ところが、若いということは仕方のないもので、それがどんなにかけがえのないものであったかは、過ぎてしまってから分かるものです。バーナード・ショーは「若い者には青春はもったいない」と喝破していますが、どう言い訳をしても、この至言の前には黙ってこうべを垂れるほかはありません。
 もしあの頃、この趣味を持っていたなら、というのも残念なことの一つです。というのは、私は石造狛犬の進化の極致は「江戸型」と考えていますので、いわば宝の山にいて宝を見ていなかったのです。東京に現存する神社は概ね規模が大きく、狛犬の設置率も高いので、狛犬研究にはもってこいのフィールドなのでした。

 さて前回『徒然草』をご紹介しましたが、その後、狛犬についての文献は400年近く途絶え、次の機会は江戸時代の『和漢三才図絵』まで待たねばなりませんでした。この本は漢方医の寺島良安が、中国の本草綱目を手本に編纂したもので、正徳2(1712)年に成立した大部の百科事典です。中国由来の部分には荒唐無稽の記事もありますが、それはそれで、中国人の想像力の豊かさに感心したり、古代人の精神世界を垣間見たりできて、面白い読み物です。

そこには、狛犬について、次のように述べられています。
「社頭拝殿の両傍に蹲踞(そんきょ)の形の牡牝の犬を作って置き…(中略)…金剛力士の二王を楼門に立て仏法守護の証とするのとは趣は同じである…(後略)…」(『東洋文庫』より)

 これまで拙文をお読み下さった諸賢はすぐにお気づきのように、ここにはひとつ誤解があります。それは「牡牝の犬」というくだりです。狛犬は「唐獅子と狛犬」の一対なのですから、「犬」の「つがい」でないことは明らかです。しかし、当時の有識者がそのように理解していた、という文化的背景が分かる点では重要な記述かもしれません。
 狛犬に関する文献資料が途絶えていたのは、南北朝以来争乱続きで、それどころではなかったというのが実情でしょう。しかしこの空白の時代は、狛犬に変化がなかったことを意味していません。実はその間に、狛犬は大きな画期を幾つか乗り越えていたのです。
まず、禁裏の箱入り娘だった狛犬は『徒然草』より前の時代に、そっと扉を開けて、外界の陽光に初めて浴したのでした。これは狛犬にとって、最初でしかも非常に大きな一歩でした。ただ「木」という材質の制約により、この一歩は「庇の下まで」という限界を背負っていました。それを打破したのは、「石造化」という「素材革命」です。これによって狛犬はついに、露座にまで進出することが可能になったのでした。それは同時に、「秘蔵するもの」から「見せるもの」へという、人間の側の「意識革命」を伴っていました。いったんこうなると、「見せる」ためのテクニックがどんどん発達していくことになります。そして『和漢三才図絵』の頃には、ほぼ現在の私たちが見ている狛犬の基本的な形が確立していました。
その始まりとなる石造狛犬のデビューは安土桃山時代と考えられており、佐賀県(肥前国)でも、その時期に石造狛犬が造り始められています。これは、その独特のスタイルから「肥前狛犬」という固有名を与えられており、その道では有名なモデルです。大胆なデフォルメと省略が施された、おおむね全高25~30㌢の小型犬で、1600年代の前半頃までに盛んに造られました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奉納時期の分かる最古の肥前狛犬・天正年間(1573~1592)
唐津市相知町 熊野神社蔵 像高:ア46㌢ウン40㌢

この時期に肥前狛犬が大量生産された理由を推測してみると、
①それまでの木造狛犬が一斉に耐用年数を超え、それに代わる狛犬が必要になった
②その際、「見せる」狛犬として、露座に設置できるものが求められた
③奉納者の栄誉を後世に残すためにも、耐久性のある石造狛犬が歓迎された
などが考えられます。
 しかしこうしたことが、佐賀にだけ起こった特殊な事情だったとは思われません。狛犬の石造化は全国的なトレンドであって、佐賀でもそれに沿った動きが喚起されたと考えるのが自然です。ただ、狛犬を石造化するにあたり、それをどのように造形するかは石工の腕とセンスに任されていたわけで、今と違って情報の流通が少なかった時代でもあり、各地で思い思いの独特な狛犬が造られたに違いありません。それを裏付けるように、原初的で個性豊かな石造狛犬は各地で散見されるようであり、それらは全国で狛犬の石造化がトライされた痕跡と見ることができます。肥前狛犬の場合は、それらの中でも古い方に属すると思われることや、その素朴ながら創意に満ちたデザインが魅力的であり、さらに大量に残存しているということもあって、注目されやすかったのでしょう。
次回はこの肥前狛犬について詳しくご紹介し、それが次第に全国標準的な「獅子型」に包含されていく過程などをなぞってみます。(つづく)

 

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