最終更新日時 2018-04-15 19:24:36

私の趣味ー『狛犬』 第5回 (藤山正純) 

★私の趣味「狛犬」第5回    藤山正純 (S47政経 藤山正純法務事務所)

1狛犬慨論

(5)「肥前国佐嘉郡」について考える
 佐賀県が全国的には知名度が低いらしい、と気付いたのは明治大学に入学後、間もなくのことでした。よく「滋賀」や「嵯峨」と間違われるので、東京では、「佐賀」はそれらの地名に比べてずっと馴染みが薄いのだということが、よく分かったのでした。それ以来、出身地を言うときには、「九州の佐賀県」と回りくどく言うことにしました。そこまで言えば、さすがに分からない人はいなかったものの、県の位置については依然としてあいまいで、「ああ、長崎の西側ですね?」と言われた時には、笑ってしまいました。地図をご覧になればお分かりの通り、長崎の西には茫漠たる海が広がっているばかりです。もっとも、私も福島県や山形県の位置を、白地図上でパッと指す自信はありませんから、似たようなものです。

 さて、その佐賀県は、江戸時代までは長崎県と一体となって「肥前(ひぜん)国」を形成していました。また、それよりずっと古い律令時代の前には、佐賀・長崎・熊本3県を合わせた、広大な「肥(火)の国」というものがあったのです。現在の地図では、間に福岡県が挟まっているので、この3県をひとつの単位としては捉えにくいのですが、次の図のようにして見ていただくと、これらがひとかたまりの地域であることを、実感的にご理解いただけると思います。それは有明海を中心として、政治的・経済的に緩やかに結びついた「環有明海パートナーシップ」とでも言うべきものだったと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「火の国」という名は、有明海に接続する八代海で見られる「不知火(しらぬひ)」という蜃気楼現象から起こった国名とも言われていますが、個人的には何と言っても、雄大な阿蘇山のイメージから来た国名に違いないと考えています。今日でも噴煙を吹き上げる活火山の大阿蘇は、カルデラの大きさが南北25㎞、東西18㎞に及んでいます。これはかつての大噴火で山が陥没した名残であるので、その規模から考えて、富士山をしのぐ標高を持っていたと推測されています。実際に、阿蘇から遠く離れた佐賀県で、9万年前の大噴火による火砕流でなぎ倒されたという大木が出土しています。噴火の規模もさることながら、佐賀県にまで火砕流を到達させるためには、よほどの標高が必要だったことも確かです。

 さて奈良で産声を上げた大和政権が、次第に中央集権国家としての骨格を整えるにつれ、地方行政も緻密になって、「肥の国」は「肥前国」と「肥後国」に分割されました。同様に、全国の国々も、それぞれ「前後」「上下」というように細分化されていきました。この場合、地理的に都に近い方が「前」「上」で、遠い方が「後」「下」ということになっています。九州ではほかに、「豊の国」が「豊前(ぶぜん)」「豊後(ぶんご)」に、「筑紫国」が「筑前(ちくぜん)」「筑後(ちくご)」に分割されました。

 ところで、この「前後」や「上下」という規則性に対して、一見、例外のような場所があります。それは千葉県です。千葉県は北半分が「下総(しもうさ)国」で、南半分が「上総(かずさ)国」でした。現代の感覚では、千葉県の北半分の方が都には近いように思ってしまいますが、当時の東海道は相模湾から千葉南部へ船便で至るのが正式であったため、そちらが「上」になったと言われています。

 ここで、「サガ」という地名について、ちょっと考えてみたいと思います。この地名は『肥前風土記』に「肥前国」の中のひとつの郡の名として登場します。『風土記』は8世紀初めに編纂された、当時の国勢調査のようなものです。とは言え、現代の感覚から見ると、国の調査としては大雑把でのどかなものでした。報告すべき内容としては、

「1.郡や郷の名」
「2.産物」
「3.土地の肥沃の状態」
「4.地名の起源」
「5.伝えられている旧聞異事」
でした。(Wikipediaより)

「4.」と「5.」などは、何のために費用と労力をかけて調べる必要があったのか、理解できないほどです。しかし、後世の私たちにとっては、この「4.」と「5.」こそが、めっぽう面白い読み物なのです。特に「4.」は、当時すでに不明となっていた地名起源を、何とかそれらしく報告しようと、地方官僚が知恵を絞った部分です。ところが、ほとんどが語呂合わせか駄洒落のような説明に終始しているところを見ると、いくら考えても分からないので、最後はあきらめて投げやりになった様子すら髣髴させるわけです。しかしそうした中にも、色々考えたり想像したりするヒントが含まれています。これからご紹介する「サガ」の地名起源説も、そうしたものの一つです。

『肥前風土記』は2通りの起源説を挙げています。
1.当地では川の上流に荒ぶる神がいて、人を苦しめていた。ある時、ひとりの女がその神を鎮める方法を進言し、それに従ったら災いがなくなった。それでこの女を「賢女(さかしめ)」と呼んで讃え、それが地名になった。
2.当地に巨大な楠木があって、朝日の影は杵島郡(佐賀県西部)まで届き、夕日の影は養父郡(鳥栖市=佐賀県最東部)まで届いた。この楠木の「栄える」様子を地名にした。

 説話自体は例の語呂合わせに過ぎませんが、ここで気を付けねばならないことは、どちらの説話も「サカ」という音をもとにして語呂合わせをしている、という点です。決して「サガ」という音を説明しようとしていません。また『肥前風土記』が、この地名を「佐嘉郡」と表記していることも、その発音が「サカ」であったことを示唆するものです。それではその「サカ」とは何か、ということですが、これはやはり「坂」であろうと考えています。

『肥前風土記』にある「佐嘉郡」というのは、現在私が住んでいる「大和町」と重なる地域です。ここには「肥前国」の国府がありましたので、当時の「肥前国」の中心地でした。従って国分寺、国分尼寺などの重要施設も密集しています。
 大和町は佐賀市の北部に位置し、背後に屏風のような脊振・天山山系を背負っています。

そして、その山中に発した嘉瀬川が、初めて開けた土地に流れ出て造った扇状地の要にあたるところに今の大和町があります。大和町の南に広がる広大で平坦な佐賀平野は、この嘉瀬川の作用で造られた沖積平野なのです。ですから、ある時代には、この辺りに海岸線がありました。ある時代とは、6000年前の縄文海進期から弥生時代くらいにかけてのことでしょう。それはこの辺りで貝塚が発見されていることでも裏付けられます。『風土記』の時代に至っても、佐賀平野の大部分はまだ海か湿地帯のままで、人間の生活の主要な舞台ではありませんでした。だからこそ大和町に古代の主要施設が造られたのであり、逆に言えば、社会生活に利用できる土地はここにしかなかったのです。

 前は海、後ろは山という地形であり、海に向かって下るスロープ状の土地の上に、「佐嘉郡」は築かれていたのでした。この大きな「坂」の上にある集落という顕著な特徴から、「サカ」