最終更新日時 2018-10-18 11:18:22

私の趣味ー『狛犬』 第4回 (藤山正純)  

★狛犬の話  第4回     佐賀県 藤山正純 (S47政経 藤山正純法務事務所

1、狛犬慨論
(4)狛犬の社会進出
第1回目でお話ししたように、狛犬がデビューした場所は、「禁裏」と呼ばれるやんごとなき方のお住まいであり、一般人はもとより、貴族の中でも一部の人しか立ち入ることができない、閉ざされた空間でした。つまり狛犬は人知れず、しかし日本古代史の頂点と考えてよいところに、密かに現れてきたのでした。そこは極めて限られた人達の、限られた社会でした。

平安京に起居する貴族官人の数は、1万人程度だったという推計があります。また当時の日本の人口は多くて500万人と考えられていますので、わずかに0.2%の貴族階級が99.8%の庶民を支配していたことになります。推計によっては、それより更に桁違いに少ないという考察もありますが、どのように考えても、経済的にも文化的にも極端な寡占状態です。

あの『枕草子』も『源氏物語』も、そのような絶対的少数の人々の間に生まれてきた文化だとすると、たった1万人のマーケットを背景として、今日にも通用するような作品群が成立したというのは、ほとんど奇跡的な出来事だったように感じられます。逆に言えば、この1万人の文化的能力や成熟度が驚くほど高かったと言えるかも知れません。

さて、そのようにして誕生した狛犬ですが、箱入り娘がいつまでも純情ではいられないのと同様、狛犬もやがて世俗の波に洗われる時が来ます。それはいつの時代のことでしょうか。

実は『枕草子』や『栄華物語』以降、狛犬の消息はしばらく途絶えてしまいました。それが再デビューを果たしたのは、有名な吉田兼好の『徒然草』(14世紀前半)によってでした。その時には、狛犬はもう「禁裏」の箱入り娘ではなくて、庶民にも認知された神社の定番アイテムとして姿を表したのでした。時代は既に鎌倉時代を過ぎて、混沌とした南北朝時代にさしかかろうとする頃になります。

その『徒然草』の「236段」は、狛犬愛好家にはつとに有名な一文なので、少々長くなりますが、ご紹介しておきたいと思います。

聖海上人という高僧が大勢の人と連れだって、出雲神社(現・丹波国一之宮出雲大神宮)に参拝したときのことです。神社に着くと、聖海上人は本殿の前にある獅子・狛犬が、互いにそっぽを向いて立っているのを発見しました。そこで上人は「この獅子・狛犬の立ち方はとても不思議だ。これには深いわけがあるのに違いない。どうですか皆さん、これを見てなにも感じないなんて、おかしいですよ」と感激した様子で、涙目になりながら人々に話し掛けました。すると人々も「おお、これはシュールだ」「都に帰ったらぜひ自慢しようぜ」などと、口々に称賛します。上人はますます得意になって、近くにいたわけ知り顔の神官に「この獅子・狛犬の立ち方は、さぞかしいわれのあることなのでしょう。そのゆかりをぜひお聞かせ下さい」と頼みました。すると神官は、「ああ、そのことですか。これは近所の悪ガキどもの仕業でして、全くけしからぬことです」と言いながら、元のように据え直してさっさと行ってしまいました。兼好は「上人の感涙いたづら(無駄)になりにけり」と、皮肉っぽくこの文を結んでいます。(以上は藤山のいい加減な意訳なので、うのみにはしないでください。為念)

いかがでしょうか。したり顔の高僧もこれには参ったことだろうと、一種痛快さを覚えるわけですが、しかし、狛犬愛好家の関心事はそこではありません。この短い文の中には、狛犬に関する重要なポイントが幾つも詰め込まれているのです。

①聖海上人たちは、本殿の外部から狛犬を観察できている

②人々もその狛犬の立ち方が、通常とは異なることを理解できている

③この頃までは、まだ「獅子」と「狛犬」が分別されている

④狛犬を背中合わせにしたのは、(恐らく小さな)子供の悪戯である

⑤(老人と思われる)神官が、簡単に元に戻すことができている

 これらのことから、この時代には狛犬は、宮中から神社へと棲息範囲を広げていたことが分かるとともに、①もはや室内用ではなく、外部から見える場所に安置されるようになっており、②しかも一般人にもその姿は見慣れたものとなっていたことも明らかです。また、ここが重要ですが、③④で分かる通り、それは比較的小さくて軽いもの、つまり木造であったということです。でなければ、子供や老人が簡単にひっくり返したり元に戻したりはできないからです。

 以上の情報によって得られる考察は、(A)この頃までには、狛犬は扉を開けて外界に一歩を踏み出すという、狛犬史上極めて大きな画期を過ごしていたこと、(B)しかし狛犬自体は、まだ外界に十分には適応できない平安時代の形質(木造)を維持していたこと、の2点です。

 ただ外界と言っても、(B)の理由によって、雨ざらしの参道ではなく、恐らく向拝(庇)の下の、扉の前あたりに置いてあったものと推察できます。

写真は滋賀県の日吉大社の木造狛犬です。これはかなり大きいもので、『徒然草』が描くところのものとは異なっていますが、置かれている場所をイメージするのに役立つと思います。

    日吉大社の木造狛犬

 狛犬が完全に建物を離れ、さらに歩を進めるためには、「石像化」という素材革命を経なければなりませんでした。これが狛犬史において、もうひとつの大きな画期です。その革命は概ね、桃山時代から江戸の最初期にかけて進行したと考えています。近いうちにご紹介する、佐賀県で最も古い石造狛犬たちが、その頃に出現していることが理由の一つです。それは城のあり方が、中世の山城から、平野部の近世城郭へ変貌していく時代でもあり、石材業の仕事が土木から建築へと軸足を移す多様化の過程とも軌を一にするものでした。木造建築を担ってきた「大工」の中から、左甚五郎のような「彫刻大工」が生まれたように、「彫刻石工」という分野も石材業の多様化と高度化の中から発生する余地があったと考えているのです。(つづく)

 

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